一人から、また次の一人へ
2008年8月6日 読書
人には想像をする力がある。
しかし、想像は経験や感性から導き出されるものであるため、実感したことのない感覚や未知の出来事を思索することは非常に難しく、表現しづらい。
その為、大半は自分の経験や視野が及ぶ範囲内で物事を創造し、人と付き合い、生活していく。
『半径一メートル以内の世界だけ見て生きてきた』
(“フライ、ダディ、フライ”作中より)
この言葉に表わされているように、おおよそ人が生きていく上に必要なものは狭い範囲の中に大半があり、その外のものを想像することは殆ど無い。ある種の非日常として捉えられているだけで、実際にはその世界に踏み入ることすらないだろう。
だから、非日常を想像することはない。
そして、踏み込むこともない。
筈だった。
あの、八月六日に。
想像を絶する“非日常”に叩き込まれた人々も、まさかそんなことは考えてはいなかっただろう。
自分たちの世界が、一つの爆弾によって根こそぎひっくり返されてしまうなんて、思いもしなかったのだろう。
灼光と、爆風と、消えない毒がヒロシマを覆いつくしたあの日から、今日で六十三年になる。
どんなに狂った世界でも、入ってしまったのならばそこを“中心”にしなければならない。
果てしない絶望と悲哀と苦痛に、向き合っていかなければならない。
全てが奪われ、倒錯した日常。
あの日ヒロシマにいた人々の目に、その世界はどう映ったのだろうか?
多くの死と絶望を目の当たりにし、また自らも傷つきながら、破壊しつくされた街を生き延びて、何を見、考えたのだろうか?
想像にはそれを補助するツールが必要だ。
だからこそ、僕らが決して触れることのない“ヒロシマ”の現実を想像するためには、伝えられてきたものや、残されてきた記憶と回想を手繰ることが不可欠なのだ。
しかし、六十三年もたった今となっては当時を記憶している人は少なくなってしまっているだろうし、もう四十年も経てば誰も居なくなってしまうだろう。
では、果たしてそこで“ヒロシマ”の現実は考えられなくなってしまうのだろうか?
人には想像をする力がある。
自分の経験や感性に頼らずとも、他人の記憶やメッセージに共感することで、自分の世界からかけ離れたことも想像することができる力がある。
普段は使われないだけで、人には可能性に満ち溢れた力がある。
たとえ想像を超えた世界であっても、先達の経験や記憶に触れることで認識することができる筈なのだ。
“ヒロシマ”、そして“ナガサキ”は決して失われていい記憶ではないと思う。
しかし、実感できない今の世代の人々にとって、考える力を養うことは非常に難しい。
だからこそ、考える力を補うために、想像力が必要なのだ。
自分の経験でなくとも、伝聞でも、他人譲りでも構わないから、考えることだけはやめてしまわないように。
今の世代が、そして次の世代がまた同じことを繰り返さないように。
世界で唯一の被爆国として、また戦争と核を放棄した国として、“ヒロシマ”と“ナガサキ”が今なお発信し続けている尊いメッセージを考え、伝えていくことが戦争を知らない世代の、最低限の義務なのではないだろうか。
自分には関係のないこと、と思わずに、考えること。
まず一歩、日常の外の世界に踏み出してみてほしい。
自分には起こらないことを想像してみてほしい。
足りない世界を補填するために。
自分の世界を広げるために。
もう二度と、繰り返さないために。
一人から、また次の一人へ。
「このお話はまだ終わっていません
何度夕凪が止んでも 終わっていません」
しかし、想像は経験や感性から導き出されるものであるため、実感したことのない感覚や未知の出来事を思索することは非常に難しく、表現しづらい。
その為、大半は自分の経験や視野が及ぶ範囲内で物事を創造し、人と付き合い、生活していく。
『半径一メートル以内の世界だけ見て生きてきた』
(“フライ、ダディ、フライ”作中より)
この言葉に表わされているように、おおよそ人が生きていく上に必要なものは狭い範囲の中に大半があり、その外のものを想像することは殆ど無い。ある種の非日常として捉えられているだけで、実際にはその世界に踏み入ることすらないだろう。
だから、非日常を想像することはない。
そして、踏み込むこともない。
筈だった。
あの、八月六日に。
想像を絶する“非日常”に叩き込まれた人々も、まさかそんなことは考えてはいなかっただろう。
自分たちの世界が、一つの爆弾によって根こそぎひっくり返されてしまうなんて、思いもしなかったのだろう。
灼光と、爆風と、消えない毒がヒロシマを覆いつくしたあの日から、今日で六十三年になる。
どんなに狂った世界でも、入ってしまったのならばそこを“中心”にしなければならない。
果てしない絶望と悲哀と苦痛に、向き合っていかなければならない。
全てが奪われ、倒錯した日常。
あの日ヒロシマにいた人々の目に、その世界はどう映ったのだろうか?
多くの死と絶望を目の当たりにし、また自らも傷つきながら、破壊しつくされた街を生き延びて、何を見、考えたのだろうか?
想像にはそれを補助するツールが必要だ。
だからこそ、僕らが決して触れることのない“ヒロシマ”の現実を想像するためには、伝えられてきたものや、残されてきた記憶と回想を手繰ることが不可欠なのだ。
しかし、六十三年もたった今となっては当時を記憶している人は少なくなってしまっているだろうし、もう四十年も経てば誰も居なくなってしまうだろう。
では、果たしてそこで“ヒロシマ”の現実は考えられなくなってしまうのだろうか?
人には想像をする力がある。
自分の経験や感性に頼らずとも、他人の記憶やメッセージに共感することで、自分の世界からかけ離れたことも想像することができる力がある。
普段は使われないだけで、人には可能性に満ち溢れた力がある。
たとえ想像を超えた世界であっても、先達の経験や記憶に触れることで認識することができる筈なのだ。
“ヒロシマ”、そして“ナガサキ”は決して失われていい記憶ではないと思う。
しかし、実感できない今の世代の人々にとって、考える力を養うことは非常に難しい。
だからこそ、考える力を補うために、想像力が必要なのだ。
自分の経験でなくとも、伝聞でも、他人譲りでも構わないから、考えることだけはやめてしまわないように。
今の世代が、そして次の世代がまた同じことを繰り返さないように。
世界で唯一の被爆国として、また戦争と核を放棄した国として、“ヒロシマ”と“ナガサキ”が今なお発信し続けている尊いメッセージを考え、伝えていくことが戦争を知らない世代の、最低限の義務なのではないだろうか。
自分には関係のないこと、と思わずに、考えること。
まず一歩、日常の外の世界に踏み出してみてほしい。
自分には起こらないことを想像してみてほしい。
足りない世界を補填するために。
自分の世界を広げるために。
もう二度と、繰り返さないために。
一人から、また次の一人へ。
「このお話はまだ終わっていません
何度夕凪が止んでも 終わっていません」
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