紹介17 お迎えです。
2007年3月24日 読書
ISBN:4592177630 コミック 田中 メカ 白泉社 2000/06 ¥410
読書と言うのはつまるところ本との出会いと別れのようなものです。
出会って、読み始めて、考えて、楽しんで、時につまらなく思ったり、痛々しく思ったり、そうして時が経ち、読み終わって、別れる。
それがどんなに面白い本であっても、
それがどんなにつまらない本であっても、
『終らない本はない』という単純明快な理由によって、全ての本にはいつか別れがあります。
終りが、あります。
読書をして何らかの感情が生まれるのは僕ら読者が『本』という仮想の現実、その登場人物を通して彼らの“生と死”に共感し、擬似的に体験しているからに他ありません(勿論、作品の形態や方向性によってこの感情移入を拒んだり必要としなかったりそもそも出来なかったりする事も多いですが)。
当然、それは擬似的な物であり、またその感覚も“この人物がこう思うから自分もこう思うんだ”と言う遠回りな共感でしかありません。誰もがそう思っている保証も無ければ、そもそも作者がそう思わせたかったと言う確証も無いのです。
本を読んで導き出される感情に、感覚に、説明付けられる確かな足場など何処にも無いのです。
じゃあ、
じゃあ。
説明が付かないからと言って。
終わってしまうからと言って。
読み終わり、登場人物との別れを惜しみ、世界との別離を嘆き、物語の終りを名残惜しく感じる、そんな感情に。
共にあった、掌の中の沢山の思いが零れていく、そんな感覚に。
果たして意味など無いのでしょうか?
終わってしまったものは、ただ風化していくだけなのでしょうか?
『お迎えです。』はそんな“終わってしまったものに価値は無いのだろうか?”と言う果ての無い問いに向かい合った作品です。
この物語は全て“死”と言う絶対的な別れから始まります。
そして、其処からもう死んでしまった者……幽霊たちの“通り過ぎてしまったもの”に決着をつけようとします。
終わってしまったものを、辿り着けなかったものを。
再び“終らせて”、天へと送迎して行きます。
死んでしまった者と、遺された者。
離れてしまった者と、離された者。
そんな関係の中に、どうしようも無くある壁を取り去っていく。
そして終わってしまったものに、整理を、決着をつけていきます。
主人公達は物語の中で、実に多くの別れを体験していきます。
それらは全て“終わってしまったもの”から生まれた関係であり、行きつく所は最初から決まってしまっています。
どんなに仲良くなっても、どんなに思いを通じ合わせても、共に生きる事はもう出来ないのです。
それでも、彼らが『出会わなければよかった』と口にする事はありません。
それは僕らが擬似的にも現実的にも“出会いと別れ“、“生と死”を繰り返していくのと同じ理由なのかもしれません。
答えなんて無くても、価値なんて無くても、それでも。
確かにあったもの。
胸に去来したもの。
それらと“出会えて良かった”とほんの少しでも思えてしまうからこそ。
悲しいのと同じくらい、それ以上に嬉しいのです。
そして、その思いに共感できるからこそ、僕はこの本が好きなのです。
僕らは出会いと別れを、命ある限り延々と繰り返していきます。
そんな中でふと思うこともあります。
“終わってしまったものに価値は無いのだろうか?”と。
万能な答えなど何処にもありません。
しかし、その断片でも手にしたいからこそ、今日もたくさんのものと出会い、別れていきます。
その連鎖の中に少しでも答えが見えたなら。
終わった事から、進んでいく。
『ほんの些細な事だった
一度きり それきりで終わってしまう筈の
それでも 埋もれてしまうはずのそんな思いを
伝える事が出来るのは 聞く事が出来るのは
とても幸福な事なんじゃないだろうか』
読書と言うのはつまるところ本との出会いと別れのようなものです。
出会って、読み始めて、考えて、楽しんで、時につまらなく思ったり、痛々しく思ったり、そうして時が経ち、読み終わって、別れる。
それがどんなに面白い本であっても、
それがどんなにつまらない本であっても、
『終らない本はない』という単純明快な理由によって、全ての本にはいつか別れがあります。
終りが、あります。
読書をして何らかの感情が生まれるのは僕ら読者が『本』という仮想の現実、その登場人物を通して彼らの“生と死”に共感し、擬似的に体験しているからに他ありません(勿論、作品の形態や方向性によってこの感情移入を拒んだり必要としなかったりそもそも出来なかったりする事も多いですが)。
当然、それは擬似的な物であり、またその感覚も“この人物がこう思うから自分もこう思うんだ”と言う遠回りな共感でしかありません。誰もがそう思っている保証も無ければ、そもそも作者がそう思わせたかったと言う確証も無いのです。
本を読んで導き出される感情に、感覚に、説明付けられる確かな足場など何処にも無いのです。
じゃあ、
じゃあ。
説明が付かないからと言って。
終わってしまうからと言って。
読み終わり、登場人物との別れを惜しみ、世界との別離を嘆き、物語の終りを名残惜しく感じる、そんな感情に。
共にあった、掌の中の沢山の思いが零れていく、そんな感覚に。
果たして意味など無いのでしょうか?
終わってしまったものは、ただ風化していくだけなのでしょうか?
『お迎えです。』はそんな“終わってしまったものに価値は無いのだろうか?”と言う果ての無い問いに向かい合った作品です。
この物語は全て“死”と言う絶対的な別れから始まります。
そして、其処からもう死んでしまった者……幽霊たちの“通り過ぎてしまったもの”に決着をつけようとします。
終わってしまったものを、辿り着けなかったものを。
再び“終らせて”、天へと送迎して行きます。
死んでしまった者と、遺された者。
離れてしまった者と、離された者。
そんな関係の中に、どうしようも無くある壁を取り去っていく。
そして終わってしまったものに、整理を、決着をつけていきます。
主人公達は物語の中で、実に多くの別れを体験していきます。
それらは全て“終わってしまったもの”から生まれた関係であり、行きつく所は最初から決まってしまっています。
どんなに仲良くなっても、どんなに思いを通じ合わせても、共に生きる事はもう出来ないのです。
それでも、彼らが『出会わなければよかった』と口にする事はありません。
それは僕らが擬似的にも現実的にも“出会いと別れ“、“生と死”を繰り返していくのと同じ理由なのかもしれません。
答えなんて無くても、価値なんて無くても、それでも。
確かにあったもの。
胸に去来したもの。
それらと“出会えて良かった”とほんの少しでも思えてしまうからこそ。
悲しいのと同じくらい、それ以上に嬉しいのです。
そして、その思いに共感できるからこそ、僕はこの本が好きなのです。
僕らは出会いと別れを、命ある限り延々と繰り返していきます。
そんな中でふと思うこともあります。
“終わってしまったものに価値は無いのだろうか?”と。
万能な答えなど何処にもありません。
しかし、その断片でも手にしたいからこそ、今日もたくさんのものと出会い、別れていきます。
その連鎖の中に少しでも答えが見えたなら。
終わった事から、進んでいく。
『ほんの些細な事だった
一度きり それきりで終わってしまう筈の
それでも 埋もれてしまうはずのそんな思いを
伝える事が出来るのは 聞く事が出来るのは
とても幸福な事なんじゃないだろうか』
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